大地が引き裂かれる現場を目の当たりに出来る場所がある。それはアイスランドとアフリカの大地溝帯である。大学時代にはじめて大陸移動説・プレートテクトニクスなるものに出会い、大陸が裂けたり、移動して互いに衝突することを知った。はじめは「ホントーかねぇ」と半信半疑だった。その後、実際に大陸の移動が衛星を使った測量によって確かめられるに及んで、一度はこの目でその現場を見たいものだ、と長い間思い続けてきた。
一方で、人類の進化と拡散の歴史にも興味を持った。そんな時、アフリカ大地溝帯の南端に位置するタンザニアのオルドヴァイ峡谷と、そこで人類化石を発掘し続けるリーキー一家の活躍を知った。当時としては最古の人類化石を発見するなど、その活躍は目覚ましいものだった。私の地球科学と人類進化に対する興味が、このオルドヴァイで合体した。
アフリカに行ってみたい。
仕事をしている間は、それはぼんやりとした夢でしかなかった。その夢が具体的になってきたのは定年まで三年を残して会社を早期退職した後だった。学生のころから語学は大の苦手。就職したら英語などほとんど忘れてしまっていた。海外旅行の経験も豊富とは言い難い。会社を辞めて、まず始めたのがNHKのラジオ講座を聞くことだった。格安航空券を探しては、カナダや東南アジア、ネパール・インドをそれぞれ二~三ヵ月間かけて旅して貧乏旅行のノウハウを身につけた。
はじめてのアフリカ
二〇〇九年一〇月二八日午後、私はケニアの首都ナイロビ郊外の空港に降り立った。関西国際空港からドーハ経由でナイロビまで往復八万円の航空券を手に入れ、ケニアとタンザニアに一ヵ月間滞在する予定だった。六十歳にして初めてのアフリカだった。
予定といっても計画らしきものはない。今回は小手調べ。アフリカの交通、宿泊、治安など一般的な状況を確かめることが目的だった。唯一具体的に行ってみたいと思っていたのはオルドヴァイ峡谷のみ。どうやって行くのかも知らない。一ヵ月もあればなんとかなるだろう、といういいかげんな予定だった。
ネパールでヒマラヤ・トレッキングをした時や北海道一周サイクリングに行ったときは、持っていく荷物を極力絞り込んだ。その時とは違って、今回はあまり荷物を絞り込まなかった。用心して薬類も多種類用意した。おかげでリュックの重さがが十キロもある。ネパールのときより二キロ重い。老体にはちょっとしんどい。
はじめてのアフリカ大陸は、飢饉や大地の荒廃、経済の破綻、政情不安、犯罪の横行・・・どれを取っても不安な材料ばかりである。
アフリカの中では比較的豊かで安定していたケニアは「アフリカの優等生」と呼ばれていた。そのケニアでも、二〇〇七年末の大統領選挙を境に民族間で激しい殺し合いが勃発した。私が着いたのはその二年後、騒動は収まっていたもののヨーロッパを中心とした外人観光客はガタ減りの状態だった。
最新の「地球の歩き方」は警告のオンパレードだ。「タウン中心部以外は昼間でも決して歩くな」「ナイロビでは用事もないのに出歩くことは絶対避けよ」「ダウンタウンへは決して行ってはいけない」「市内の公園には決して立ち入るな」「いつ、どこで強盗、殺人事件が起きても不思議はない」「移動にはタクシーを使うこと」「唯一歩くことができるのは外人観光客が多い高級品店街だけ。そこに行くのも必ず昼間、複数で、しかも現地の人と一緒に行く。何も持たず、午後四時までにはタクシーを使って現地から離れること」「商店のウィンドーは鉄格子がはめられ、昼休みは二重ロックがかけられ、夜はガードマンと犬が夜警をしている」
どれもこれも恐ろしげな話ばかりだ。
インターネットで予約しておいた安めの中級ホテル「Embassy」に空港から直行した。一ヵ月間の旅でスケジュールが決まっていたのは、往復の飛行機とこのホテル二泊だけだった。ナイロビからどうやってタンザニアに行くか? 「地球の歩き方」でおおよそのアタリはつけていたものの、本当に陸路を乗り継いで行けるのか、はっきりしない。目的地のオルドヴァイには、地方中心都市アルーシャから向かうことになるのだろうが、アルーシャからの交通手段については全く何の知識もなかった。あとは現地で聞いて調べて、出たとこ勝負で行くしかない。
ホテルの部屋の壁に貼り紙があった。「部屋にカメラその他の貴重品を置いたまま外出してはならない」
一方でガイドブックには「外を歩くときは何も持つな」と書いてある。いったいどーしたらいいんだ!
これと同じ貼り紙は、次に泊まったナマンガのゲストハウスにもあったから、きっとその筋の役所か観光協会のような団体が、宿泊施設に配って張り出させたものだろう。
いくら危険であると言われても、まったく外出しないわけにはいかない。まず手持ちの現地通貨がない。聞けば近くにATMがあるという。ホテルの男に確かめると、昼間は外出しても問題ない。夜は外を出歩くのはやめた方がいい、とアドバイスしてくれた。
外出前に部屋のドアに鍵をかける。ドアのノブ付近には、鍵をかけたまま蹴破った跡が残っていた。ドアの外側にはドアの鍵とは別に南京錠をかけられる金具も取り付けられている。ホテルの鍵だけでは安心できない。日本から持って行った小さな南京錠を二重にかけた。
近くのシティ・マーケットでミネラルウォーター一リットル五十三ケニア・シリング、マンゴー二個一キロ百五十シリングを買い求めて、明るいうちにホテルに戻った。昨夜は飛行機の中で満足に寝ていないから、今日は早めにベッドに入るつもりだった。
部屋に入ろうとして「ない!」。南京錠の鍵が見あたらない。確か小銭入れに入れたはずなのに。二センチほどの小さな鍵である。外出用のバッグの中を何度も探したが見つからない。慌てた。ズボンや上着のポケットの中身を取り出し、バッグの中を調べなおした。やっぱり、ない。さては部屋の中に置き忘れたか。
安物の南京錠だから、金槌か小さな金切りのこでもあれば壊すことができるだろう。とは思うものの手元にそんな道具はない。いよいよ困り果てて、通りかかったホテルの若い男に相談した。先ほどまで各部屋の掃除とベッドメーキングを一人でしていた男である。
男は南京錠を手にとって調べ、
「いくらした?」
「百シリングだ」
本当は二百円、ケニア通貨にして百二十シリングくらいの安物だ。
男は「もっと高いだろ。高級品だ」
「いや、チープな商品だ」
男はなおも南京錠をためつすがめつ眺め回し、「五百シリングくれたら、錠を壊さないでドアを開けてやる」
くそったれ、こちらの足下を見透かしている。仕方がない。錠は壊れてもいいからと値切る。結局二百シリングで手を打つ。
男はその辺にあった鉄片を持ってくると、南京錠を取り付けた金具をこじって緩ませた。あとは簡単だった。ちょっとドアが開く状態にして片足で思い切りドアを蹴飛ばすと、南京錠は金具ごと吹っ飛んだ。手(足?)慣れたものだった。
鍵はあとになってズボンのポケットから出てきた。
ケニア国立博物館
翌日、郊外の国立博物館に出かけた。ここはタンザニアのオルドヴァイやケニア北部のトルカナ湖岸で人類化石を調査し、大きな成功をおさめたルイス、リチャードのリーキー親子が館長を務めたことがある。博物館の奥まったところに人類化石のコーナーが設けられ、化石人骨が展示されていた。その一角は壁とドアで仕切られ、他の展示物とは一線を画され特別扱いされていた。
そこはリチャード・リーキーがトルカナ湖岸で発見した化石を中心に展示されている。ほぼ完全なホモ・エレクトゥス骨格として名高い「ナリオトコメボーイ」、頑丈型アウストラロピテクス「ボイセイ」、エレクトゥスより一代前のホモ・ハビリス、いずれも地学の教科書にも出てきそうな有名人たちである。ほとんどはレプリカだと思うのだが、室内の照明を落とし、ガラスケースに入れられている。今回は無理だが、いつか再びケニアを訪れることがあったら、今度はトルカナ湖にも足を伸ばしてみたいものだ。
入場者は、理科授業の現地の子ども達と、大人は欧米人がほとんど。なんたって入場料は八百シリング、この国の物価水準からすればべらぼーに高い。現地レートはドルを挟んでくるくる変わるからはっきりしないが、私は十シリングを十五~二十円として換算していた。八百シリングは千数百円、他の物価を勘案すれば実質五千円くらいの値段になる。これはガイジン価格かもしれない。この入場料では地元の人は見学に訪れないだろう。レストランも鶏肉と野菜とライスで七百シリング。日本並みの値段である。市街地のちょっとこぎれいなレストランでとった朝食は卵焼きとハム、ソーセージ、パン、ミルクティーとたっぷりな量で百七十シリングだったから、これと比べても博物館全体がガイジン観光客に的を絞っていることが想像できた。
博物館を出るとタクシーが声をかけてきた。中心街まで五百シリング。往路のタクシーは三百シリングだったからこれもガイジン価格だ。これからの旅程を考えれば、このガイジン価格にいつまでも付き合っていられない。乗車を断る。運転手はあわてて四百五十シリングに値下げして引き留めようとしたが、無視して歩き始めた。
現地の人が歩く方向に自分も進む。そちらが市の中心部方向だろう、と勝手に見当を付けた。「地球の歩き方」に中心部以外は歩くな、極力タクシーを使え、犯罪が多発している、と恐ろしいことが書いてあったのを思い出す。通りすがりの人たちは、家族連れや若い男女、グループなどで、どう見たって犯罪者には見えないのだが、やはりなんとなく緊張する。中心街までさほどの距離でないはずだと思って歩き出したのに意外に遠い。しかもクソ暑い。地理不案内の緊張もあって「バテたなぁ」と思っていたところに、通りがかりのタクシーが声をかけてきた。値段を訊ねると「二百シリング」。ドアがでこぼこ、フロントガラスにひびの入ったボロ車だったが、人の良さそうな親父だったので乗り込んだ。クーラーは付いていなかったが、ほっとした。どうも肩に力が入っていたようだ。
国境へ
ナイロビは二泊で十分だ。できるだけ早くタンザニアに向かおう。オルドヴァイと大地溝帯を見るという目的をとりあえず最初に果たしておきたい。
マサイ・マラ国立保護区でのサファリ・ツアーをしつこく勧める、ツアー会社の勧誘員を振りきってタンザニアとの国境の町ナマンガに向けてマタツに乗り込んだ。マタツは定員六~十人くらいの乗り合いバス(あるいはタクシー)。運行時刻表のようなものはない。乗客が定員いっぱいになったら出発する。手荷物を目いっぱい持った乗客でぎゅう詰めになることがあるし、スリなどの被害も多発するらしいけど、とにかく安い。ナイロビのダウンタウンにあるマタツ乗り場からナマンガまで約三時間で三百五十シリングだった。
今回のケニア、タンザニア滞在約一ヵ月の旅行で、両国の国境にまたがるナマンガに、往き帰りで都合八泊もした。普通は通過するだけの、たいして見るべきものもない小さな町だが、なんとなく気に入ってずるずると延泊を繰り返した。
ナマンガの国境ゲート手前の食堂で居合わせた青年に「清潔で安いホテルを知らないか」と尋ねた。その青年は「知ってるよ。とても良いホテルがある」。頼みもしないのに、先に立ってホテルまで案内してくれた。彼が連れて行ってくれたキリマンジャロ・ロッジは国境ゲートそばの安ホテルだが、建設して間もないのと清掃が行き届いているため清潔感がある。宿の主人はいなかったが、勝手に私の部屋を決め、
「一泊目七百シリング、二泊目からは六百シリングね。OK、OK。No problem」。
この調子の良さに乗せられて、次の日も彼に付近を案内してもらうことにした。
彼の名はモーゼス・ムニャパーラ。「マサイだ」と自己紹介した。作業服に上着、私とほとんど変わらぬ小柄な体格。長身にハデな布を体に巻きつけたマサイ、の先入観からはほど遠い第一印象だった。
「観光客向けでない、本当のマサイ集落を見せてやる」
マサイの住居
彼の運転するバイクの後ろに乗って彼の父親の家へ行く。未舗装の道を四十分ほど走り、そこから脇にそれ、低い灌木がところどころにはえているだけの道なき斜面をちょっと登ると、彼の父親ムニャパーラ一族の集落があった。
とげのはえた樹木の枝を円形状に並べてフェンスとし、その中に物置小屋にも劣るような住居が五、六軒かたまっている。日本の「集落」から想像するのとはひどく違う小規模なものだった。
私たちがオートバイのエンジン音を高らかに響かせてフェンスの入り口に到着すると、三~五歳の幼児三人とその子守だろうか、中学生くらいの女の子が物珍しそうにこちらを眺めている。その中の一番小さい三歳くらいの男の子が、バイクの音に驚いて泣きべそをかいている。家の中から母親らしき女も現れた。モーゼスは彼女を「ママ」と呼んだ。モーゼスの生みの母親にしては若すぎる。首まわりをマサイ独特のハデな首輪で飾り、耳にも大きな耳飾りがぶら下がっている。体にまとっている布は汚れが目に付いたが、もともとはハデな色彩だ。
この日、ここにはムニャパーラ氏と妻、子供が四、五人、それとひどくヤセて貧相な犬が数匹いるだけだった。他の人々は家畜を追って遠くに出かけているという。住宅とフェンスに囲まれた集落の中央に家畜を入れる広場がある。今は牛の糞がところどころに残されているだけで、動物の姿はなかった。
住居は樹木の枝を編んでその上に土と牛糞を塗って壁とした長方形の粗末な小屋。中は畳六枚分もあるかどうか。モーゼスの案内でその一軒に入らせてもらった。明るい太陽光線の下から屋内に入ると中は真っ暗、目が慣れるまでにしばらく時間がかかった。電気などないから、壁や天井の穴から漏れ入った外の光で、ようやく物が識別できる。
頭がつっかえそうなほど天井が低い。居間らしきスペースと寝室らしき部分に一応分かれていたが、数本の細い柱があるだけで仕切り壁があるわけではない。全体が土間で中央に囲炉裏がある。家具らしき物はほとんどない。寝室部分には地面の上に牛の皮が敷かれている。毛布のような夜具類は見あたらなかった。モーゼスが服を着たまま牛皮のベッドに寝転がってみせた。「快適なんだぜ」
これがマサイの典型的な住宅なのかどうかは怪しい。後にタンザニアのアルーシャ近郊で見学したマサイの住宅はサイロを水平に拡大したような円筒形で、壁、屋根ともしっかりしていて、もっと広かった。
モーゼスを介して許可をもらい、住居の周囲や子ども達の写真を撮りまくる。
ムニャパーラ氏もどこからか現れた。背丈は一七〇センチ足らず、がっしりした体格の初老の男だった。ひょろりと背の高いマサイのイメージからはかけ離れているが、赤い柄の美しいマサイ・マントを体にまとい威厳がある。写真撮影の許可を求めると、モーゼスはひと言ふた言ムニャパーラ氏と言葉を交わしたあと、こちらに向き直って「彼に百シリングあげてくれ」。これがマサイの習慣なのだろうと了解した。カネを渡して遠慮なくシャッターを押しまくる。
ひとしきり写真を撮り終えて、手みやげ代わりのビスケットの包みをムニャパーラ氏に手渡した。彼は包みを開けるとビスケットを取りだし、子ども達全員に一枚ずつ配った。こんなささやかなおやつでも子供はもちろんムニャパーラ夫婦もけっこううれしそうだ。親交の証に私も彼らの中に加わり、モーゼスにシャッターを押してもらおうと一人の子どもに寄り添ってポーズを取った。その子が怯えて泣き出した。私たちが到着したとき、オートバイの音に泣き出した子だった。
モーゼスには「父」が二人いるようだ。このムニャパーラ氏と以前に亡くなったという父。どっちが実父なのか確認しなかったが、多分亡父の方だろう。
「母」は何人いるのかさっぱり見当もつかない。この集落に暮らす母、国境前の食堂を経営しているママ、モーゼスが生まれ育ったナマンガ郊外にいるママ。
別の日にモーゼスが「ビッグ・ブラザー」と呼ぶ一家を訪問した。そこにもママがいた。彼女は自分を「オリジナル・マサイだ」と紹介した。モーゼスは彼女を「スモール・ママ」と呼んでいたけれど、実際は縦横デカイおばさんだった。スモールは身体の大小のことではなく、年齢のことなのかもしれない。それにしても、このたくさんいるママのうちどれが彼の生母なのか?
モーゼス自身はナマンガ市街地にバラックの一室を借りてひとりで生活している。彼の住居の隣には、兄一家が住んでいた。他に十七歳になる高校生の妹もいるらしい。この兄妹が血を分けたきょうだいか? 先の「ビッグ・ブラザー」は、どういう関係なんだろう? ムニャパーラ氏のところで会った幼児たちは? 結局よく分からなかった。
お調子者同士、盛り上がった宴会
モーゼスは結構はしっこい。車やバイクに客を乗せて走っていることもあれば、ガイドもする。自分では車やバイクを持っていないから、仕事が入ると顔見知りから賃借りする。
周辺を案内してもらってその日の経費を精算した。千二百シリングの支払いに千シリング札と五百シリング札を渡した。彼には釣り銭がなかった。あらためて百シリング札二枚を渡し、先の五百シリング札を返すよう申し渡す。彼はいやいやをして戻すのを渋る。はじめから釣り銭など出す気はなかったのだ。強く言うと、ようやく懐から五百シリング札を出した。落胆の表情をあからさまに見せながら。
精算がおわって、最後にチップとして二百シリング渡すと、途端に表情がぱっと明るくなった。はしっこいけど案外、人がいい。おしゃべりなお調子者。
夜、彼と彼の友人ベンソンを連れて飲みに行った。ベンソンはマサイ族ではない。どちらかというと縦長のマサイに対して、ベンソンは縦に縮まったかんじ。筋肉増強剤で失格となった、あの陸上一〇〇メートル選手ベン・ジョンソンを三まわりほど小型にした体型といえば分かりやすい。そう言えば名前も顔つきも少し似ている。
三人で「Konyagi」という銘柄のアルコール度三五%の地酒を甘い炭酸で割って飲む。Konyagiは多分日本の焼酎のような蒸留酒であろう。けっこううまい。
飲むうちに調子が上がってきた。
モーゼスが自慢した。「マサイ戦士はアフリカ一勇猛だ」
酔っぱらうと、こっちも負けず劣らずのお調子者。私も日本のサムライの強さを吹聴した。
ジャパニーズ・サムライだって勇敢だ。名誉や忠誠、正義のためには命だって捨てる・・・とかナントカ。新渡戸稲造になり代わり貧しい英語で応酬した。
江戸時代の武士階級はすっかり小役人化していた。現代の月給取り同様のサラリーマンであったことは神坂次郎の「元禄御畳奉行の日記」に詳しい。だけど、そんなことは行きがかり上言えない。アルコールの勢いで引っ込みがつかなくなった。
いつの間にやら、Konyagiの大瓶が二本になり、ゆでたて骨付き羊肉が出てきて・・・モーゼスの知り合いがさらに一人加わり・・・モーゼスはこちらになんの断りもなく勝手に注文を追加する。
もちろん最後の勘定はこちら持ち。こんな時の出費はシリングでなく「円」で考えることにする。換算すれば三千円程度の飲み代だ、ススキノで飲んだことにすれば「安いもんだ」と自分で自分に言い訳した。
アフリカを実感
十一月二日、両替屋で残りのケニア・シリングをタンザニア・シリングに換え、国境を越えた。九百ケニア・シリングが一万五千タンザニア・シリングになった。同じシリングでも価値は十~二十倍の違いがある。だんだん金銭感覚が混乱してくる。
国境の手続きはスムーズだった。ケニア側で出国手続きを済ませ、タンザニア側の入国審査所まで百メートルほど歩く。その間はどこの国でもない。途中でなんだかわけの分からん連中が旅行者を待ちかまえている。ナイロビのホテルで話をしたタクシー運転手のアレックスから、国境にはイカサマ野郎が多い、と聞いていた。はは~ん、こいつらか?
案の定、手を換え品を換え、旅行者にまとわりついてくる。「タンザニア・シリングはいらんか」。一人の男などは入管事務所の係官を装って「パスポートを見せろ」。こちらは用心してパスポートをしっかと両手で押さえたまま差し出したが、男が札束を取り出したのを見て「ノーサンキュー」。男を振りきって先を急ぐ。タンザニアのビザ取得(ビザ取得料金五十$)は簡単に終わり、国境ゲート前に待ちかまえていたアリューシャ行きのブジョー(ケニアのマタツと同じ乗り合い自動車)に飛び乗った。
同じアフリカでもケニアに比べるとタンザニアは経済的に貧しい。国境を越えナマンガ郊外に出ると、道路は未舗装でガタピシの路面。周囲は砂と岩、ところどころに低い潅木がはえているだけの半砂漠状態である。その中を山羊や牛が列を作ってゆっくりと移動して行く。その家畜を追って歩く、ハデな民族衣装の人々を見かけた。マサイであろう。草葺きの円筒形住居も点在する。国境をまたいでこの一帯は、もともとマサイの広大なテリトリーなのだ。
「ついにアフリカに来た」という実感がわいてきた。
想像していた通りのアフリカに入ったのだ。ブジョーの窓から眺めた、日本とも東南アジアともひどく異なる景色に、胸がジーンとした。これは私のアフリカに対する先入観なのだろうけれど、急に広がった砂漠のような光景になんだか興奮し感激した。
セレンゲティ・ンゴロンゴロ公園の入り口に近く、サファリ・ツアーの拠点になるアリューシャに着き、ホテルで飯を食っていると、ツアー会社の営業マンがさっそく近寄ってきた。太った初老の男である。
私にはオルドヴァイ峡谷を見に行くのが何よりも優先である。サファリにも行くつもりではあるが二の次に考えていた。その旨を告げると、男は
「オルドヴァイに行くのなら三泊四日の混載ツアーがいい」
たしかに自分でレンタカーを運転するのは不安だ。オルドヴァイ行きだけのためにレンタカーを借りガイドを雇ったら、かなりの費用がかかりそうだ。それにオルドヴァイ峡谷はセレンゲティ国立公園とンゴロンゴロ保全地域に挟まれたあたりに位置する。どちらかを通らないと行けない。どちらにしろ入園料を支払わなければ通過することさえできない。
サファリ・ツアーとオルドヴァイ見学が一度でできるのなら、それも悪くない。そう思って勧められるままにツアー参加を決めた。セレンゲティとンゴロンゴロそれにマニヤーラ国立公園の三ヵ所の入場料三百$とテント宿泊、食事など一切を含めたツアー代金三百六十$、合わせて六百六十$の出費は貧乏旅行者には痛いが、ここが今回の最大の目的地なのだからと決断した。
ライオン、バッファローを喰う
翌朝早くにスタートしたツアーは、東京から来た二十代の男性Nさんとペアになった。ガイド兼運転手のスーパーとコックのモーゼスの四人が、ランドクルーザーに乗り込んだ。スーパーは愛称。本名は知らない。スーパーは優秀なガイドだった。それでこのあだ名が付いたのだろう。コックのモーゼスはナマンガのモーゼス同様のお調子者。でもなんで同じ名前が多いんだろう。日本の太郎と花子みたいなもんか?
一日目セレンゲティ、二日目セレンゲティ・ツアーと移動、三日目ンゴロンゴロ、四日目マニヤーラ。ツアーの日程を確かめると、あれれ・・・オルドヴァイが割愛されているではないか。三泊四日のこのツアーは、原案では一応オルドヴァイにも立ち寄ることになっているが、実際には省略することが多いのだそうだ。二泊三日のツアーならもともとオルドヴァイは行程にない。アフリカに来る外人旅行者の多くは観光かサファリ・ツアーを主目的としている。オルドヴァイを是が非でも見たいなどという酔狂な客はほとんどいないのだろう。
でも私にとってはこれは一大事。契約の時、確認したではないか。でもスーパーたちにはきちんと伝わっていなかった。「オルドヴァイには必ず行って欲しい」強くスーパーに申し入れた。はじめは怪訝な表情をしていたスーパーだったが、セレンゲティからンゴロンゴロへの移動の途中に立ち寄ってくれることになった。
雨季直前のこの季節、セレンゲティは砂漠のように乾き、動物の多くは水の豊富なケニア側のマサイ・マラ方面に移動していて、セレンゲティで見ることができる動物の種類はそれほど多くないという話だったのに、それでも二十種類を超える大型野生動物を間近かに見た。
メモ帳を見直してみると、マサイキリン、チータ、ヒョウ、アフリカゾウ、ライオン、ブチハイエナ、シマウマ、カバ、バッファロー、サイ、イボイノシシ、インパラ、グランドガゼル、トムソンガゼル、ディクディク、トピー、ウオーターバックス、アンテロープ、マングース、バブーン(ヒヒ)、サバンナモンキー、ナイルワニ、ヌー、ダチョウ、ハゲタカ、フラミンゴ、カンムリヅル、その他メモを取るのも追い付かないほど多数の鳥類たち。
サファリ・ツアー二日目、暗いうちにキャンプサイトを出て早朝ツアーに出かけた。まだ明けやらぬ薄暗がりの向こうをスーパーが指さした。
「あそこを見てみろ」
スーパーの目の良いのには驚かされる。水辺の藪の中で、雄ライオンが倒したばかりのバッファローに喰らいついていた。
その横で席次二番手の雄がじっと待っている。さらに三頭の雌が遠巻きにして雄が食い終わるのを待ちかねている。実際に狩りをしたのは雌ライオンのはずだ。空からはハゲワシも舞い降りてきて周囲でうろうろしながら、おこぼれにありつくのを待っている。
まわりに他のツアー客を乗せたランドクルーザーが集まってきた。スーパーが携帯電話で知らせたのだ。スーパーは絶えず他のガイドたちと携帯電話で連絡を取り、情報を交換し合っている。情報をもらうこともあるが、大抵はスーパーがいち早く見つけ、他のガイドに教えてやる。動物だけでなくサバンナの自然全体に対する知識が豊富だ。
三〇メートルほどの距離を保ちながらシャッターを押しまくる。一時間後、あの大きな獲物がほとんど骨だらけになった。さらに昼頃に通りかかると、影も形もなくなっていた。死肉あさりのハゲタカやハイエナが運んでしまったのだろう。
ハイエナ、カバを喰らう
乾季のこの季節、湖は干上がり、限られた水場には、カバなどの大型動物がひしめく。そのそばに、病気で死んだのだろう、一頭の大きなカバが浮いていた。死体を見つけたハイエナの群れが、次々と岸辺に集まってきて、小躍りするように水中にジャンプする。すでに十頭ほどが死体に取り付いていた。カバのお尻のあたりが大きく喰い破られ、その穴から内蔵を引っ張り出しては、むさぼり喰う。岸から見物するわれわれの方を警戒するように、水中から伸び上がって周囲を見渡す。なんて卑しい顔つきだろう。ときどきうなり声を上げて仲間同士で威嚇し合い、またカバの死体の中に上半身を潜り込ませる。凄惨な光景だ。
彼らもまた循環する自然の中で、ひとつの役割を演じているのであろう。昨日までは仲間だった他のカバたちは、さほど気にする様子もなく、近くの水面から鼻と目だけ出している。死んだ者はすでに物体でしかないのだろうか。仲間の肉体がハイエナに食い荒らされるのを横目に、すぐ横で鼻からときどき泥水を吹き上げる。
◆
人類が二本足で立って歩くようになったとき、大型肉食獣にとっては人類は格好の獲物になっただろう。二足歩行は長距離を移動する上では有利だが、瞬発力では四足動物にまったくかなわない。人類は恐ろしいライオンなどから身を隠しながら、こそこそと食物を探したに違いない。雑食性で食物の大半が植物質、肉類はせいぜい死肉をあさる程度だったろう。私には目の前でカバの死体に喰らいついている、ハイエナの姿がわれらの先祖の姿とダブって見えた。
そして、ここからは私の空想なのだが、人類には共食いの習慣だってあったのではないか。種内競争の激化や、ヒトの最大の敵はヒトになったことが、大脳の発達を促したと考える研究者もいる。複雑な社会生活を勝ち抜くためには、大きな脳がものを言った。他人の心理を読み、時に欺き、時に助け合って他を出し抜く。グループ内では共同戦線を張って他のグループ(つまり敵)との戦いに勝ち抜いた者だけが、生き残ってきた。それが進化というものなのだろう。
死肉の習慣と種内闘争となれば、共食いはそれほどかけ離れた話とは思われない。現にごく最近まで人食いの習慣を残していた民族がいた。
日本だって、これまでに発掘された人骨の中には、「料理」の跡を思わせる切り傷や、焼いた痕跡のある人骨が見つかっているようだ。「おぞましい」との考えからか、あるいは民族の誇りを汚すまいとするのか、古代のカニバリズムをきちんと調べた研究はあまりないようだ。たしかにキワモノめいてはいるが、真面目に取り組めば興味深い研究になるのではないだろうか。現生人類はみな人食い人種の子孫である、ということになったとしても、私はちっともかまわない。
色即是喰う、喰う即是色
ダチョウの雄は涙ぐましい。雌を見つけると足早に追いかけ、大きく羽を広げハデなポーズで相手の気を引く。その気のない雌は知らんぷりして、とっとと逃げていく。雄はあきらめて次を探す。何度かプロポーズを繰り返して、ようやく受け入れOKの雌が現れた。
雌の上に乗っかった雄は、ピンクに染まった長い首を激しく左右に揺らし、全身で歓喜を表わす。
キリンの群れの中では、雄同士が互いに頭突きを果てしなく繰り返していた。長い首をしならせての強烈なアッパーカットの応酬である。より強い子孫を残すことが使命の、雄に科せられた宿命みたいなものか。
「生き残るってえのは大変なことだ。DNAってのは罪なモンだなぁ」
実をいうとアフリカ行には般若心経をコピーして持って行った。もともとが不信心ものである。突然、信仰心が芽生えたわけではない。ただ何か機会があったら、お経のひとつでも唱えて、異教徒相手にニセ坊主でも演じてやろうか、という不届きな魂胆である。
本は一冊しか持って行かなかったから、活字に飢えたら一節くらい暗記できるだろう。あとはムニャムニャとやれば、般若心経なんぞ聞いたこともない人々を、たぶらかすことぐらいできるかもしれん。なんてたって、大半がキリスト教徒とイスラム教徒である。
でも結局、暗記できなかった。というより暗記しなかった。活字に飢えることもなかった。従って、空で唱えることが出来るのは「色即是空 空即是色」のみ。
動物たちの生き残りをかけた戦いや涙ぐまし努力に、般若心経がリフレインした。
「色即是喰う 喰う即是色」
◆人類揺籃の地オルドヴァイ峡谷
「峡谷」と呼ばれているから、アメリカのグランド・キャニオンのような大峡谷を想像していた。ウソと間違いがまかり通るインターネットのサイトにも「大峡谷」と表現した記述があった。
人類揺籃の地と呼ばれる実際のオルドヴァイ峡谷は、想像とは違って、ほんのささやかな谷だった。延長四十五キロ、谷の深さ百メートル、大きさでいえば日本の田舎でいくらでも見られるような規模である。訪れたのは乾季だったから水も流れていなかった。
セレンゲティ平原の南端に位置するンゴロンゴロ火山の麓に形成された、この峡谷はグレート・リフト・バレー(大地溝帯)の東端に位置し、古人類研究で有名なリーキー一家の手によって二百万年前ころのアウストラロピテクスから、現生人類のホモサピエンスに至る、年代の異なる幾種類もの人類化石が発掘されてきた。
近くの火山の噴出物によってその化石の年代が明確に確定されるのも、ここの有利な点である。二百万年前、百五十万年前、百万年前の噴火で降り積もった、ぶ厚い火山灰層が断崖のところでむき出しになっている。たしかにミニミニ「グランド・キャニオン」のおもむきはある。
リチャード・リーキーの「人類の起源」によると、今から二百万年前、現在のオルドヴァイ峡谷の場所には大きな湖があった。「湖は多少塩分を含んでいた。小川から真水が流れ込んでいたが、流れ出る川はなかった」。湖にはたくさんの魚と鳥類、カバと二種類のワニがいた。周りは疎林に囲まれ、ゾウやキリンなど今と同じ動物のほか、今は絶滅した大型の剣歯虎やゾウに似たディノテリウムもいたことが化石から分かる。
「今から二〇〇万年前のオルドヴァイで、われわれの祖先は湖の東端部に沿って野営をしていた。野営地の跡で見つかる動物の骨は、あたかも人工的に割られたような形をしていて、一部の骨には、肉を切り取る時についた石器の傷跡も見られる」
今、生存している人類はわれわれホモサピエンス一種だけだが、過去には幾種類もの人類がいて絶滅していった。これらわれわれのいとこに当たる人類には、様々な名前が付けられていて、まだ議論が続いている。北京原人やジャワ原人との関係もまだはっきりしない。ほぼ明確になったのは、現生人類はこれらアジアの原人とは別種の人類であるということ。人類進化の系統樹からは、これら原人は「側枝」に位置する。
ただし、これは現生人類の誕生と進化のルートを幹と見なしての話。原人側を幹に見立てれば、われわれの方が側枝。ヒトを進化の頂点と考えるのは勘違いを生みやすい。二百万年前のオルドヴァイに生きていた人類は、われわれとアジアの原人との共通の祖先だったのかもしれない。
オルドパイ博物館
われわれのランドクルーザーは、柔らかな砂地にハンドルを取られながら道なき平原を走り抜け、峡谷に達した。乾季の今は砂漠を思わせるセレンゲティ、ンゴロンゴロ一帯だが、雨季になるとこの渓谷には水が流れるのであろう。アロエのような肉厚の植物が繁茂していた。
東アフリカ野生Sisal(リュウゼツランの一種)。マサイ語では「オルドパイ(Oldupai)」。マサイ達はこの植物を消毒剤、包帯として使い、布、ロープ、籠をつくり、家の屋根を葺くのにも利用した。
昔、蝶の採集にこの地を訪れたドイツ人昆虫学者が、案内のマサイにこの地の名前を尋ねた。案内のマサイは質問の意味がよく分からないまま、一帯に繁茂している植物名を聞かれたのだろうと思って、「オルドパイ」と答えた。これを、ドイツ人昆虫学者がオルドヴァイ(Olduvai)と聞き誤ったのだそうだ。以来、この土地はオルドヴァイ峡谷と呼ばれるようになる。
流れの枯れ果てた峡谷を渡り、そのまま高台に上がる。峡谷を見下ろすように小さな博物館があった。リーキー一家の功績をたたえ、この地の重要性を説明するささやかな博物館である。博物館前には展望台も設けられている。そこからは地層がむき出しになった峡谷が一望できる。赤、茶、灰色など、はっきり色合いの異なる地層が水平に重なり合っていた。
博物館の中には、この遺跡の重要性を示すパネルが展示されている。約三百五十万年前の人類の二足歩行がきざまれた足跡のレプリカもあった。火山が噴火し、降り注ぐ大量の火山灰から逃れるべく親子が急いで避難していたのだろうか。大小少なくともふたり分の足跡が読みとれる。メアリー・リーキーのチームがオルドヴァイから南へ四十五キロほど離れたラエトリで見つけた足跡化石である。湿った柔らかな火山灰の上をヒトが歩き、その足跡が消えないうちにその上を新たな火山灰が覆ったために、今まで保存されたのだ。
この足跡は、人類がこの時代にすでに二本足で立ち上がり、歩いていた決定的な証拠だった。三百五十万年前といえば、アウストラロピテクスの時代。ラエトリの発見のあと、さらに古い二足歩行の足跡が同じアフリカで見つかっている。人類は直立歩行と脳の拡大が同時におきたと考えられていたことがあったが、脳の拡大に先立って直立二足歩行を始めていたのだった。ラエトリの足跡化石は、保存のため今は埋め戻されている。
博物館には、リーキー一家の活躍が写真などで紹介されている一方で、日本人の関野吉晴さんの自転車と靴、写真も展示されていた。関野さんは一九九三年から二〇〇二年にかけて、自転車やカヌーあるいは徒歩で南米からアフリカまで逆グレートジャニーを敢行した。岩と砂で覆われたアフリカを、彼は自転車で走り通し、この「人類発祥の地」までやって来たのだ。彼の名前は「SAKINO」と誤記されていた。
リーキー一家をはじめ世界の研究者たちの調査で、オルドヴァイを含む大地溝帯沿いは、古人骨発掘が際だっているが、南アフリカではさらに古い人類化石が出ている。人類発祥の地が本当にどこなのか。アフリカであることは、もう揺るぎようがないけれど、大地溝帯とはかぎらないのかもしれない。あるいは「人類発祥の地」などというものを、どこか狭い一点に絞ることなど無意味なことなのかもしれない。
メモ・オルドヴァイ峡谷への行き方
タンザニア・ンゴロンゴロ保護区の中にあり、地方中心都市アルーシャから車で四時間ほど。ンゴロンゴロ火口縁から約一時間。保護区内にあるので火口内ツアーをしなくても入園料がかかる(二〇〇九年現在一人五十US$)。セレンゲティ・ンゴロンゴロ・サファリツアーの中にオルドヴァイが含まれているものもあるが、しばしば割愛される。セレンゲティにも足を延ばすと別途入園料や車の乗り入れ代がかかる。ちなみに私の場合は、セレンゲティ、ンゴロンゴロ、マニヤーラ湖の三ヵ所を三泊四日でキャンピングツアーをして、ツアー会社に支払った料金が六百六十$(うち三百$は入園料など公的機関への支払い)。さらにツアー終了後、ガイドに料金の一〇%ほどのチップ。コックにもその半分ほどをあげた(だいたいの相場。ただしサービスが悪ければ必要ない)
ラエトリに行くには、保護区入園料とは別に特別な許可と料金が必要。
孤独な砂丘は何処を目指す
オルドヴァイ峡谷に近いセレンゲティ平原の南東端で、奇妙な砂丘を見た。
Moving SandsとかShifting Sands、あるいはBarkanと呼ばれている、高さ五メートルほど、縦横六〇×四〇メートルほどの三日月形の小さな砂丘である。この砂丘が年間数十メートルずつゆっくりと西方に移動している。
砂漠の中に出来た砂丘が、風によって一夜にして形を変えたり、移動するという話はテレビの自然ドキュメンタリーなんかで見たことがある。だから砂丘が一定方向に吹き続ける風によって、ゆっくりと風下の方に移動していくのは想像がつく。よく分からないのは、この広い平地に、砂丘がこの一つしか見あたらないことだ。
この一帯の地面は火山性の砂と岩と低い灌木に覆われ、雨季には背の低い雑草もはえる。乾季の大地はどこもイエローオーカーに染まっているのに、この砂丘だけが黒く、シンメトリーの美しい姿で際だっている。
砂丘の斜面に目を近づけてみると、全体が目の細かな黒い砂で出来ていた。この地から七十キロ東方の火山に由来した砂らしい。インターネットの英文サイトには千三百年前に生まれた、と書いてあった。以前はもっとたくさんの同じような小砂丘があったが、だんだん消滅してしまったそうだ。
この付近は、東風が年中吹いている。それほど強い風ではないが、砂丘の表面をほこりのような細かな砂が静かに絶え間なく流れているのが観察でき、静かな波打ち際のさざ波のような模様を描いている。
その時どきの砂丘の位置が数年おきに石杭で示され、近年は五年間に二百メートルほど移動していた。進行方向を指し示すように砂丘の両端から二本の砂の腕が前方に向かって伸び、一番高い中央部分が後からついて行く。なんだか生き物のようだ。
それにしてもやっぱり不思議だ。なぜこの一つだけが生き残っているのだろう。どうして長い年月を生きながらえることが出来るのだろう。こんなちっちゃな砂丘だから、強風が吹いたら一夜にして崩壊してもおかしくないように思われる。
再び国境の町ナマンガへ
オルドヴァイには行った。サファリ・ツアーにも参加した。でもまだ大地溝帯(グレート・リフト・バレー)を実感できない。オルドヴァイやマニヤーラ湖のへりに断崖があったものの、想像していたような地球の割れ目を思わせる地形ではなかった。
ケニアのナイロビからナクル湖に向かう途中に、地球の割れ目を実感できる場所があるらしい。
ケニアに戻ってナクル湖方面に足を伸ばしてみよう。
私の想像する大地溝帯は、大地が真っ二つに割れているような急峻な大渓谷である。でもこれは頭にこびりついたテレビ映像と私の空想の産物であったことが、だんだん明らかになってくる。
大地溝帯は、最近の百年や千年で出来た地形ではない。百万年いや時には千万年単位で考えなければならないゆっくりとした、しかも地球規模の大地の動きである。その移動のスピードは年間数ミリから数センチ程度。大増水があれば一夜にして地形を変える、河川の浸食作用とは時間のスケールが異なる。しかも東アフリカ大地溝帯の長さは六千キロにも及ぶ。空間的にもスケールが違う。人間の目ではなかなか捉えるのが難しい。
そんなふうに納得したのは、この旅行が終わるころだった。
アリューシャから南に移動し、キリマンジャロふもとのモシに立ち寄り二泊した。アフリカで一番高い五、八九五メートルのキリマンジャロ、ふもとから眺めるとその頂上付近はいつも雲が覆っていた。私の滞在中は、二日目の夕方に一瞬姿を見せてくれただけだった。そろそろ雨季が近づいている。
キリマンジャロには、ガイドとポーター、コックなどを雇わなければ登山の許可が下りないという。タンザニア国民のメシのタネであろう。「バイト」という地元民を相手にしている小さな食堂で知り合った山岳ガイドの話では、六泊七日の登山で十万円くらいの費用がかかるということだった。
前年、ヒマラヤのトレッキングで五、五〇〇メートル地点まで行ったから、時間さえかければまったく無理な高さではない。でも、カネと時間に余裕がなかった。キリマンジャロを一瞬でも拝むことができたことに感謝しつつ、タンザニアとケニアとの国境の町ナマンガに路線バスで向かった。
バスがナマンガに近づくと、数人の男たちが立ち上がり、札束を握りしめて車内を歩き回り、旅行者一人ひとりに両替を持ちかけた。ほとんどの客はそのまま国境のゲートを越え、ホテル事情のよいケニア側に行ってしまう。
「俺は、タンザニア側で泊まる。まだ両替は必要ない」と断ると、男はうれしそうに握手を求めてきて
「ウエルカム ナマンガへ。ここは平和な町だ」。そして下車の際にホテルも紹介してくれた。近くにあるモテル「サチャ」。「清潔だしテレビも付いている」「ホテルの中にレストランもある。バーもある。きれいな女性もいる」
テレビはいらない、今はバーもきれいなおねえさんも必要ない。ただ砂ぼこりだらけの体をお湯で流したい。ともかくこのホテルに行った。朝食付きで一万タンザニア・シリング(約千円)。シャワーは水だったけれど、バケツ一杯の湯をくれた。体を流し、すっきりしてレストランに行く。レストランとはいってもだだっぴろい部屋にパイプ椅子が並んでいるだけ。客は二、三人。メニューらしきものはなく、料理人が客の注文に合わせて、その分だけ作る。私はチキンライスを注文した。タンザニア料理など知らないから、これしか注文のしようがない。
でも、これが結構うまかった。タンザニアの米飯は日本人の口に合う。タイ米のようなパラパラした米ではなく日本同様の粘りけのある種類。それに何か香味料を加えたのだろう、ちょっと甘みのある炊き方も私の口に合った。
ここは「マサイ・ランド」
タンザニア側ナマンガではマサイを含めた住民のナマの生活が垣間見えた。国境線沿いの奥まった路地に雑多な小商いの店が並んでいた。このあたりを歩いている外人観光客などほとんどいない。まわりは黒人ばかり。
車や建物の陰に日中の強い日差しを避けながら、四人五人とかたまって何をするでもなく時間をつぶす人々がたむろしている。
その中に一段と華やかな衣装を身にまとった老若男女の姿が目に付いた。ハデな色のマサイ・マント、タイヤを切り取って作ったマサイ・サンダル、そして男は自然木を磨き上げたマサイ・スティックを持ち、ひと目でマサイと分かる。華やかで「いかにもアフリカ」を感じさせるが、その生活実態はあまり豊かとはいえないようだ。
親しくなった中年男(非マサイ)が、路地の奥を指差しながら、「この町のバックサイドを覗いてごらん。昼間から酔っぱらってるアル中がいっぱいいるから」
言われてみると、郊外で家畜を追っている人々に比べると、町で所在なげに時間をつぶす彼らには、なんだか覇気がない。自らの選択であるにしろ、そうでないにしろ、時代に取り残された感がある。時代に乗り遅れた先住民の例は、どこにでもある。
彼らのナマの日常を写真に撮りたかったのだが、通りすがりのガイジン旅行者としては、いきなりカメラを向けるのはぶしつけに過ぎる。
ケニア側ナマンガでバイクに乗せてくれたモーゼスなどは、時代に素早く寄り添ったマサイの例なのだろう。衣服もマサイ衣装を捨てた。
中には伝統的なマサイ衣装を身にまといながらも、ホテル経営などの現代的な経済活動を行っている者もいるようだ。
否応なく現実の経済活動に巻き込まれた彼らだが、それでも(あるいは「それなのに」と言った方が適切なのかも)独特のマサイ・マント、サンダル、スティックを捨てず、自らの民族性を誇示している。数多いアフリカの民族の中でも一段と目を引き、誇り高き民族と称されるゆえんであろう。
郊外の空き地に大きなアリ塚があった。折良く山羊の群がやって来た。山羊とアリ塚を組み合わせて写真を撮る。ファインダーのすみに山羊を追う人影が点のように映った。
前方から声が飛んできた。「マネー、マネー」。写真を撮ったから金を払え、という。マサイである。アリ塚を撮っただけだ、人は映っていない、と液晶画面を見せても彼は引き下がらない。
ほとんど通じない英語でしばし押し問答。「それじゃ、あの人達に聞いてみよう。金を払わなければならないかどうかを」
同じように家畜を追って来た二人の男を呼び寄せる。金を要求した最初の男よりは英語が分かる。私の説明に男達は、あっさり「金を払う必要はないよ」。何が何でも金をとろうとしていた最初の男もさすがに仲間の判断には従うしかない。かなり恨めしげに去っていった。
カメラをぶら下げて歩いていると、男(非マサイ)が声をかけてきた。両手を大きく広げ、冗談めかして「ほれ、俺を撮ってもいいぜ。十ドルだ」。被写体として金になるマサイを揶揄した感がある。私は「ノーサンキュー」。
浸透するキリスト教
マサイ戦士の第二夫人になった、松永真紀さんが書いた「私の夫はマサイ戦士」によると、ケニア西部からタンザニア北部にまたがるマサイ・ランドも、国立公園や自然保護区化で、マサイが自由に移動し放牧してきた土地が、どんどん狭められてきた。牧畜だけでは生活できなくなった多くのマサイは観光客を受け入れ、その収入で生活することを強いられつつあるという。
白人たちはマサイにもキリスト教の布教を勧めている。学校建設や井戸掘り、医療活動などの慈善事業を行い、着実に信者を増やしている。キリスト教ではマサイの戦士活動や割礼などを野蛮な行為と見なし、マサイの伝統的な文化とは異なる価値観を植え付けてきた。その結果、伝統行事が中止になる村も出てきたのだそうだ。
このナマンガの市街地にも教会がいくつもある。この町にどのくらいの数の住民が住んでいるのか、はっきりしたことは分からなかったが、三十分間も歩けば郊外に出てしまう小さな市街地だから、人口は数千人であろう。出入国関係の政府施設を除けば、たいして大きな建物もない。ふうつうの田舎の集落をそのまま押し広げたような町のつくりだが、教会だけはあちこちにある。ふらりと散歩して見かけただけでも四ヵ所もあった。宗派が異なるのだろうか。
日曜日になると、晴れ着で装った人々が続々と教会に集まり、中から聖歌が流れてくる。教会の入り口で信者を出迎えていた世話役が、こちらに向かって手招きした。
「キリスト教信者じゃないけど、入ってもいいんですか?」
「どーぞ、どーぞ」
礼拝堂の椅子はほぼ満席。前方の演壇でマイクを握った牧師が聖書の一節を引用しながら説教していた。その口調は順々と人の道を説くというのとはほど遠い。マイクのボリュームをいっぱいに上げて、ほとんどアジテーションである。われわれの感覚からは説教と言うより、街頭政治集会の演説に近い。
牧師の言葉を信者が唱和する。しんみりした説教の部分では、それに合わせるように信者はうつむき加減になり敬虔かつ悲しみの表情を表す。すごいのめり込みようだ。
最期は聖歌の合唱。全員立ち上がり、音楽に合わせて体を大きく左右に揺らし、恍惚状態に近いような仕草もみせる。あるいは単なる演技なのだろうか。ともかく熱心な信者たちである。今やキリスト教の本場?の欧米だってこんなに熱心な信者は多くないのではないだろうか。
「ちょっとおカネちょうだい」
狭い路地に、おばさんたちが小さな屋台スタイルの店を出し、野菜、果物、日用雑貨などこまごました物を並べている。バナナや干した小魚などを売っていたデブの中年女が声をかけてきた。
「日本人か?」
そうだと答えると
「一九九五年ころ、日本の女の子がここで三日間過ごしていった」
この日本娘の話は、おばさんの店で買い物をするたびに聞かされた。「女の子の名前を思い出した。サクラという名前だった。サイタマの娘だった」。名前はちょっと嘘くさいけど、おばさんにとってはとても印象深い出来事だったのだろう。
若い男が二人でやっている床屋にも入ってみた。頭から髭だらけの顔まで、バリカン一丁で刈ってもらうことにする。
「いくらだい?」
「八百シリング」
安い!日本円にして五十円くらいということもあるが、モシのバスターミナル・ビルの中にあった床屋は一万シリングと吹っかけてきた。ナマンガの住民はすれてない。ものの十分間くらいで終わり、「サンキュー」と言いながら握手を求めると、二人とも「Welcome」
町はずれを歩いていると、頭にバケツのような容器を載せた女が現れた。身長一八〇センチ以上はありそうな素晴らしいスタイル、カラフルな布を体に巻きつけ、マサイの女とひと目で分かる。カメラをぶら下げているこちらに気づくと、ちょっとためらう素振りを見せたが、こちらを見ながらゆっくり近づいてきた。
「写真を撮らせて」と頼んだが、あっさり断られた。でも、つっけんどんといったふうではなく、笑顔を見せながら、まわりに寄ってきた子ども達を指さして
「この子たちを撮りなさい」
子ども達も「自分たちを撮れ」とせがむ。子どもの写真、それもポーズを取った写真にはあきあきしていたから、あまり乗り気ではなかったけれど、シャッターを押し、日本から持って行ったアメ玉を配る。
と、突然、周りの家々から子ども達の母親が飛び出してきた。
「いえ、ただ子ども達が写真を撮ってくれと言うから、撮っただけで・・・。俺がやったのは日本のアメ、決して体に悪いもんじゃない」
一瞬たじたじになりながら、自分でもわけの分からん言い訳をする。どっちにしろほとんど相手には通じていないのだが。母親たちの表情をよく見ると怒っているふうではない。ただ心配で集まってきただけだったのかもしれない。本当のところは今でもよく分からない。ともかくカメラはトラブルのもと。早々に退散した。一人の母親が最期に「Welcomeナマンガへ」と言ってくれた。
途中で道を尋ねたおやじも陽気に「Welcome。ところで小銭は持っとらんかね? あったらチップをくれんかねぇ」。あいにく小銭は百シリング(約十円)硬貨一枚のみ。「ごめん、これしかない」と謝りながら手渡すと、おやじは「No problem」。けっこううれしそうに受け取った。
以前ベトナムで、目の悪い物乞いのばあさんに小銭を渡したら、悪い目をカネのすぐそばまで近づけて金額を確かめると、「こんなハシタ金はいらん」と突き返され、バツの悪い思いをした経験がある。
ナマンガのおやじの場合は「なければ、ないでも結構。ともかく言ってみよう」とでもいうふうな要求の仕方である。東南アジアやインドあたりの、ほとんど脅迫に近い物乞いやチップの要求に比べると、拍子抜けするほどあっさりしている。
昼飯は食堂でバナナと芋と羊の臓物を一緒くたに煮込んだ、すいとん風の料理を食う。チャイと合わせてお代は千二百シリング。二千シリング札を渡したら釣りの八百シリングは戻ってこなかった。夜は違う食堂でライスとチキンと野菜、それに持ち込んだ地酒の「Konyagi」をいただく。そこのおばさんは商売上手だ。食事の前後に水差しを持ってきて
「ハイ、手を出して。きれいに洗って」
私の手に水を注ぎ、汚れ水をお盆で受け止める。
酔いも手伝って楽しく夕食をとっているそばで、おばさんは陽気に歌をうたったり、丸っこい体をリズムに合わせて揺すり上げて雰囲気を盛り上げる。きっとカモ来たる、の気分だったのだろう。上機嫌である。
「あんた、『Konyagi』を飲んでるね。私にもビールをおごってよ」
「いくらするの?」
「千五百シリング」
楽しい夕食だったから、そのくらいはしょうがないか。
二千シリング札を渡すと、お札はそのままおばさんの懐へ。ビールを飲んだ様子はなかったし、もちろん釣りの五百シリングをくれる気配もなかった。
電灯のまったくない真っ暗な夜道をほろ酔い加減でホテルに向かって歩いていると、暗がりから長身の若い男がぬっと現れた。黒い皮膚が暗闇に溶け込んで、そこに人がいるなんて思いもよらなかったから、ぎくりとした。
「俺を覚えているかい? ほら、昼間あんたが貸し自転車を探していたとき、助けてやったろ」
たしかに見覚えがあった。
「俺、カネないんだ。二千シリングほしいんだけど・・・」
突然のことだったので「NO!」と拒絶してしまった。男は「あ、そう。じゃ、よい旅を」とあっさり立ち去った。あとで思うと、食堂のおばさんにあげるぐらいなら、あの若い男にやるべきだった。ともかく外人旅行者と見たら「ちょっとおカネちょうだい」「おごってよ」と言ってみるのが、ここらの習わしのようだ。「カネない」と断ると、あっさり引き下がるのも共通している。
あやうし、不審問にひっかかる
ケニアに再入国して、往きに泊まったキリマンジャロ・ロッジに再び投宿した。掃除洗濯一切を仕切っているテュマイニおばさんとその息子で夜警のンガブレルが私を覚えていてくれた。二人ともほとんど英語を話さないが、歓迎してくれているのはよく分かる。ロッジの中庭で三人で記念写真を撮った。
昼寝をして日差しが少し緩んだのを見計らって部屋を出ると、テュマイニの容姿がすっかり変わっていた。髪をきれいに結い上げ、黄色と緑の柄模様のよそ行きの衣装で身を飾っている。ふだんせっせと洗濯に精を出しているときとは明らかに違う。そしらぬ風を装っているが、こちらの反応を気にしているのはあきらかだ。ハハーン。私にはピンと来た。
よそ行き姿で写真を撮ってくれ、というシグナルである。
一眼レフカメラを持ち出し、彼女に合図をすると、すぐに体をカメラに向けて斜めに構え、ポーズを作った。女心はどこの世界も変わらない。
ケニアとタンザニアにまたがっているナマンガの町は、マサイと他の民族が入り交じって生活している。両国の出入国管理事務所付近には二つの国を仕切る塀があるものの、そこから五十メートルも離れると、国境には何の目印もない。国境線に沿って幅五十メートルほどの空き地が続いているだけだ。だれでも両国の間を行ったり来たりできる。
地元の人にとっては、国境など後から引かれた図上の線でしかない。ケニア側のキリマンジャロ・ロッジで働くテュマイニ、ンガブレル母息子もタンザニア側から毎日通ってきていた。逆にタンザニア側のサチャ・モテルのコックはケニアの青年だった。
よそ者の私も、はじめは恐る恐る、慣れてくると大ぴらに、両国の間を勝手に行き来した。
ナマンガ最後の日も、ケニア側から国境の空き地を通ってタンザニア側に向かった。泊まっているキリマンジャロ・ロッジから国境の空き地に出るには、ふだんは錠前の下りている裏の鉄扉を通る方が近い。その日はたまたま錠が開いていた。
これ幸いと裏口をくぐり抜けた途端、後ろから呼び止められた。
「なんで、そんなとこから出てきたんだい?」。見ると身長二メートル、体重百キロ以上ありそうな大男。
「なんで」ったって、特に理由なんかありゃしない。
「ロッジのおばさんが、通ってもいいよ、って言ってくれたから」と、とっさのでまかせ。
「中国人か?コリアンか?」
「どっちでもない。日本人だ」
相手は私をコソ泥かなんかと疑っているらしい。疑いの眼でこっちをにらみ
「パスポートを見せろ」
「そう言うあんたは何者だい?」
「ポリスだ」
白っぽいシャツに緑茶色のズボン、確かに警察官の制服のようだ。でも、簡単には信ずるわけにはいかない。かつてネパールの入管事務所で、職員のような顔をした狸おやじに騙された経験がある。
それにパスポートはズボンの内ポケットにドル札と一緒に入っていた。こんな路上で、見知らぬ男に開陳するのは、できたら避けたい。
「ポリスの身分証明書を見せてほしい」
「事務所に置いてある」
「それじゃ、信用できん」
大男は少しイラっとした表情を見せて「周りでたくさん人が見ている。みんな、自分が警察官だと知っている」
アフリカには、何かと難癖をつけて袖の下を要求する役人が多い、とどこかに書いてあった。乗り合い自動車マタツ(あるいはブジョー)で移動している時も、あちこちに検問があって、その度に運転手が警察官と交渉していた。金を渡すこともあるようだ。
あんまり逆らったら、逆にイチャモンをつけられかねない。ズボンの下からパスポートを出して渡す。
警官はナイロビに到着した日時、ケニアからタンザニア、タンザニアからケニアに出入国した日時を確認して「フム」と言っただけでパスポートを返して寄こした。難癖をつける口実がなかったと見える。
やれやれ、誰何された地点がタンザニア側でなくて助かった。あちらで捕まったら、密入国になるところだった。
ナクル湖
ナマンガからナイロビ経由でナクルに向かう。ナイロビ発のマタツは座席に座ったら最後、身動きできないほどのぎゅう詰めだった。途中に地球の割れ目を実感できそうな峡谷があるから、マタツの席は窓側を確保すると良い、と教えられていたものの、窓側の座席に座りたいなどというゼイタクは許されそうになかった。自分の尻をねじり込むスペースを見つけるのがやっとだった。
たしかに途中にそれらしい地形もあった。地図で確かめると、地溝帯の縁の小高い部分をバスは走っていた。低地を挟んで数キロから十数キロ先の向かい側に対岸の高まりが見える。低地に湖が点々と続く。低地の底から突然立ち上がったような火山の独立峰もあった。でも人間の目の高さからは、渓谷というより普通の盆地としか見えない。大地溝帯を実感するには至らなかった。二年後、この大地溝帯が続くエチオピアで上空を飛ぶ飛行機の窓から地上を眺めてみたが、それでもやっぱり肉眼で大地溝帯を実感することはできなかった。
ナクルには夕方薄暗くなって着いた。マタツの停車場は、市場や商店でごった返している中心部にある。さて、どこに宿を求めようか。停車場の近くにホテルの看板がいくつか目に付いた。それを目がけて歩き出す。周りは黒人だけである。仕事帰りの男、買い出しの女、わけもなく群がるガキども。すごい人の数である。
その人混みの中に人の輪ができて小さな空間が生まれた。真ん中に男がぶっ倒れていた。口から血を吹いていた。真っ黒な顔と真っ赤な口。生きているのか死んでいるのかも定かでない。
ケニアの中でもナクル以東は政情不安定な地域である。さらに東に百キロど行ったビクトリア湖岸のキスムでは、先の騒動の際にルオ族とキクユ族が衝突し、虐殺事件が起きた。それ以来、この地を訪れる外国人観光客は大幅に減った。それから二年が過ぎても観光客は戻っていなかった。ナクルには五泊したが街中で黒人以外の人間を見たのは数回だった。
エライところに来てしまった。そそくさと人混みから離れ、近くの安宿に転がり込んだ。
昼間のナクルはそれほど怖いかんじはしない。歩いてナクル湖方面に向かう。ここのフラミンゴの群れは見事らしい。でも湖のまわりはぐるり塀などで囲んであって、ゲート以外はシャットアウトされていた。自然保護区に指定された湖には、入場料を払わなければ立ち入ることができない。ツアー会社で聞いたら、入園料が六十$、それにガイド料が半日で五千シリングかかる。フラミンゴを見るためだけに一万五千円の出費は痛い。あきらめる。
帰りにボダボダと呼ばれる自転車タクシーに乗った。仕事のない男たちが、自転車の後ろに客を乗せて走るのである。開発途上国に行くと自転車が曳く人力車はどこにでもあるし、モーターバイクの後ろに客を乗せるバイク・タクシーも珍しくないが、自転車そのものに客を乗せるボダボダははじめてだった。うしろの席、つまり荷台には人を乗せるために特性の厚いクッションがくくりつけられている。
五百メートルほど走ってもらって二十シリング。
途中で運転を代わってもらった。
「ちょっと俺にも運転させてくれ」
サイクリングは私の趣味の一つである。男をうしろに乗せ、私がサドルをまたぐ。が、しかし、サドルが高すぎて足が地面に届かない。男の上背は私とどっこいどっこい。なのに脚の長さが明らかに違う。
アフリカでシャツなどを買うと、胴体がちょうど良いのは袖が長すぎる。アフリカ人の手足は長い。ひるがえって自分が正当な北方モンゴロイドであることを実感した。
「血塗られたアフリカの薔薇」
ナクルからナイロビに戻る途中、ナイバッシャに立ち寄った。ケニアでは、ナクル湖をはじめ多くの湖が自然保護区や国立公園に指定され、入園料を払う観光客以外は立ち入れない。そんな中で、ナイバッシャ湖は珍しく地元民の憩いの場、生活資源としても利用されている。
湖の周りには広大なビニールハウス群が建ち並び、輸出用の花を栽培している。それまでに訪れたケニア、タンザニアのどの町よりもこぎれいで、見るからに豊かな印象を受けた。恵まれた環境を求めて、欧米人の居住者も多い。
このナイバッシャで四年前、ドキュメンタリー作家にして自然保護活動家のジョアン・ロードが殺害された。実を言うと、この事件は帰国してからNHK衛星放送のドキュメント「血塗られたアフリカの薔薇」で知った。地元民との軋轢があった彼女を殺したのは誰か?犯人は捕まっていない。
四年前に起きたジョアン・ロードの事件など知らなかったから、郊外の小高い丘や、市街地と隣接のスラム?をふらふら歩き回り、人なつっこい地元民とたわいない会話を交わした。
「ここはピースフル・タウンだねぇ」
「そ、ここは豊かだから」
お愛想ばかりで口にしたのではない。雑踏の中に、男が口から血を吹いてぶっ倒れていた隣町のナクルに比べると、本当に平和な風景そのものに見えた。
湖の写真が撮りたくなって、細い田舎道を歩いて湖の岸辺に向かった。まわりは山羊や馬、ロバ、牛の放牧地。遠くに羊の群が点々と映り、ファインダーの片隅で、かすかに人影が動いた。人影はブッシュの陰に隠れた。羊飼いだろうか。
カメラをぶら下げて歩いていると二人の若者が寄ってきた。十六歳と二十三歳。若い方が英語を話せた。外見は普通のシャツ、ズボン姿だったが、二人とも木製スティックを持っている。
「マサイか?」と確かめると、かすかにうなずいた。
こちらに合わせて歩みを進めるが、あまりうち解けた感じではない。こちらの行動を監視しているふうでもある。マサイを撮るとカネを要求されるから、カメラの液晶画面に風景画像を再生して見せると、二人うなずき合って「これなら問題ない」。
道路の行き止まりで彼らと別れた。乾季のため湖面が縮小し、岸辺は遠くに後退していた。湖まで行くのは無理だった。周囲の景色に向けて何回かシャッターを切りながら、もと来た道を戻った。
道の真ん中に、男がひとり仁王立ちになって遠くからこちらを見ているのが分かった。真っ黒な顔は帽子のひさしの陰になっていて、表情はよく分からない。右手のマサイ・スティックを肩に担ぎ、左手にもう一本のスティックをぶら下げている。
なぜともなく、いやな感じがした。
三十メートルほど近づいたところで、「ハロー」と大声をかけた。
反応はなかった。ただ無言でこちらをにらみつけている。
やばいな・・・と内心思った。まわりには他に誰もいない。さっきの少年達でもいれば少しは心強いのだが、彼らはとおに姿を消していた。
でも、町に戻るにはこの道しかない。日が傾きかけていた。回れ右するわけにもいかない。やむなくそのまま進んだ。
「ハウ・アー・ユー」
少しでも友好の態度を示しておこうと、さらに声を張り上げる。
男は道の真ん中に突っ立ったまま、こちらの肩口をにらみつけていた。動かない視線が激しい怒りを示していた。一言も発しなかったが、あきらかにこちらを威嚇していた。全身から強い敵意がほとばしっていた。
私は平然を装って、そのまま彼の脇をすり抜けた。今にも後ろから襲いかかられそうな不安と恐怖に耐えながら。ゆっくり歩いたつもりだったが、きっと足早になっていたに違いない。後ろを振り返ると、男はさっきの姿勢のまま、向き直ってこちらを見送っていた。
逆光の夕日の中で、もうその表情は判然としなかった。
彼らにとって自分が闖入者であることを強く意識させられた。
「This is Kenya !」
ナイバッシャからナイロビに向かうマタツも、はじめから車の定員をオーバーしていた。三人掛けの椅子に四人で座らされ、生憎と隣のおばさんがかなりの肥満体。車が激しく揺れるたびにデブおばさんの分厚い肩とこちらのか細い肩が激しく押し合い、お肉たっぷりの胴体のがぶり寄りに、窓際の私はますます身を小さくした。
このままナイロビまで走るのを覚悟していたから、途中の町でこのおばさん含め何人かが下りたときは、本当にほっとした。やれやれ・・・
と思っていたら、マタツは一向に走り出さない。助手のおやじが外に出て、通りがかりの人間を片端からつかまえて勧誘を始めた。前後を眺めると、他に五、六台のマタツが停車して客引きをしている。なかなか補充の客がつかまらないようだ。やれやれ・・・
折良く家族らしい三人の女性グループが現れた。手に手に大きな袋包みとバッグを持ち、明らかにこれから出かけるところなのが分かる。カモ到来。助手の出番である。
私の乗ったマタツの助手は年期の入った「したたかおやじ」。ここはおやじの腕の見せどころと、すぐにアタックを開始した。後ろのマタツの若い助手も三人と交渉を始めた。
したたかおやじのターゲットは三人の中で一番年上のばあさんである。まだ「乗る」とも言わないのに、ばあさんの大きな荷物をひったくるように取り上げると、さっさとこちらのマタツに運び込もうとする。敵の若い助手が「したたか」に追いすがって、ばあさんの荷物を奪い返そうとする。互いに何か口々に怒鳴り合いながら、でも「したたか」は荷物を手放さない。そのままこちらの車の中に荷物を放り込んだ。ばあさんも荷物に引きずられるように、こちらのマタツに乗り込んできた。
「ばあさんさえ確保すれば、こっちのもんだ」
いったんは「したたか」に軍配が上がったかに見えた。
しかし、連れの若い二人の女がこちらに来るのを渋った。したたかおやじの説得に耳を貸さない。揚げ句に若い助手について後ろのマタツの方に行ってしまった。いったんはこちらの席に腰を下ろしたばあさんだが、連れが後ろに乗り込むのを目にして腰を浮かしかけた。「したたか」は「一人でもいいから」と、ばあさんの引き留め工作を続ける。
でも若い二人をとられては形勢逆転。おやじの引き留めるのを振り払って、ばあさんは車を下りて連れの方に行ってしまった。後ろの車から若い助手が「それ見たことか」とおやじに悪態を浴びせながら、こちらに置きっぱなしになっていたばあさんの荷物を取り返しに来た。
この一部始終を見ていた、後ろの客席の中年男が、いまいましげに
「This is Kenya」
この「This is Kenya」をケニアで何度か耳にした。
一度は、ナイバッシャ湖の周囲を走る、これまたマタツの中で。この時は車の定員の二倍くらいの客が車内に詰め込まれた。客の半数は座席に腰を滑り込ませることもかなわず、中腰状態もしくは隣と隣の人に挟まれて半ば宙に浮いた状態で車は走りだした。後部入り口のスライド・ドアを開けっ放しにして、つま先と頭だけを車内に入れた二人の助手と客の一人が車体にしがみつく。私の横にいた若い男が自嘲気味につぶやいた。「これがケニアさ」
ナイロビに戻ってダウンタウンに宿を求めた。「外を歩くときはバッグのひもををしっかり肩に通す。ひったくられないように」と宿の主人から注意を受けて、おそるおそる街に繰り出した。宿を出た途端に、近くのT字交差点で小型バス同士が接触した。ぶつけられたとおぼしき方から男数人がばらばらと飛び降りると、ぶつけたとおぼしき方の助手を引きずり下ろし、めちゃめちゃにぶん殴った。助手はほうほうの体で自分のバスに逃げ込んだ。
衆人環視の一瞬の騒動。通行人もあっけにとられたように足を止め、たくさんの野次馬が集まってきた。歩道で眺めていた初老の男が、こちらと目が合うとニヤリとして
「This is Kenya !」
私はケニアが好きになった。
Iさんケニア―エチオピア国境越え
タンザニアで知り合い、ナイロビで再会したIさんからメールが来た。
無事、ケニアからエチオピアに、陸路抜けることができた、と知らせてきた。「かなりハードな体験だった」とも。帰国したら、彼から国境越えの体験を聞けることになっていた。
ケニア-エチオピアの国境付近は、強盗などが多発して、外務省の海外危険情報では、危険地帯になっている。「地球の歩き方」でも「決して陸路を行ってはならない」と、このコースを避けるよう、強い調子で書いてある。
だけど、外務省の「危険」「渡航自粛要請」乱発はいつものこと。ケニアのナクルで地元の人に聞いたら、外務省が危険区域にしているウガンダとの国境付近や、二〇〇七年末の選挙で民族間の殺し合いがあったキスムも「今は何も危険なことはないよ」ということだった。
「地球の歩き方」も、ことアフリカに関しては、やけに危険を強調して書いている。この指南に従ったら、ナイロビなんかほとんど歩く場所がない。帰国前に泊まった安ホテルも、この本では「決して立ち入ってはならない」区域内にあった。IさんやナイロビでNPOの一員として活動している青年と一致したのは「あまりに取材不足だ」。
ただし、ケニア‐エチオピア間は、ナイロビなどとはわけが違うらしい。この国境付近に関する限り、もともと政府の威光が十分に行き渡らない地帯だそうだ。ナイロビから国境までは長距離バスが走っているが、時々、強盗に襲われることがあるそうだ。Iさんはトラックの助手席に乗せてもらって三日間がかりで国境を越えた。
アフリカからアジアに向けて陸路を行く旅行者にとって、この一帯は難所の一つに挙げられている。ここさえ越えることができれば、飛行機を使わなくともインドまではなんとかたどり着ける。 Iさんからの連絡がしばらく途絶えていたので、まさかとは思いながらも、少し心配になっていた。彼からのメールでは「エチオピアのインターネット事情が非常に悪くて、今まで連絡できなかった」と、英語で書いてあった(つまり、日本語は使えない)。